雪でも降りそうな極寒の3月。神奈川県津久井郡にすばらしいトタン職人様がいらっしゃるということでお話を伺いにいきました。
昔から、武田信玄や諏訪大社にからまれたりして名刀の刀加持もいらっしゃったお土地柄だという津久井郡。
農業、酪農に加え、明治時代から板金職人、テーラー・・・さまざまな職人さんがうまれてきたところだそうです。70代のおじさまたちは「津久井弁」とよばれるお国言葉がお上手。「あれだからよ、寒いからよ」素人がきくと江戸っ子みたいでステキであります(敬礼)
地元の方のバンに乗せてもらい、数百メートルの高台までやってくるとステキな看板が・・・!!!!!
たどりついたのは、「平本板金店」!!!!!!
大正生まれのおじいさんから3代続く板金屋さんです。平本さんは、1940年代のお生まれ。
平本さん「昔はよ、家なんかちょっとしかなかったんだよ!」
幣人事部「どんな屋根の家が多かったんですか?」
平本さん「杉板だなあ。でよ、戦後住みつく人がふえてよ、トタン缶なんかを開いて屋根にしたわけ。こういうやつね。」
幣人事部「えええーーー!!!!!!!今でもひし形に葺いてるトタン屋根みかけますけど、そんな感じですか」
幣人事部、妄想中・・・
(↑写真は、東北で見つけたひし形葺きのトタン屋根。トタン業界用語で「ひし葺き」という。昔は小さいトタン板しか売ってなかったので職人さんが1枚ずつおりこんで大きな屋根を葺いたそうであります最敬礼!)
平本「そうそう。葺いた後コールタールで塗ってな。あんまりもたなかったけど」
幣人事部「トタン屋根が普及するのはいつごろで?(モミ手)」
平本「昭和30年ぐらいからよ。オリンピックのときはカラー鉄板つうのもでてよ。
昭和45年 列島改造なんつって、毎月新築を発注されたなあ。(遠い目)」
幣人事部「当時は何色のトタンが人気だったんですか?」
平本さん「青かな。今じゃ、黒いトタンが人気だけどよ、当時はコールタールみたいだっつっていやがられてたな。」
なんと!!!!!!!!!!!!!!!今じゃ、某漫画家の先生んちが赤いだのなんだのって裁判沙汰になってますが、田中角栄高度成長期の津久井には、鮮やかな青トタンがもとめられていたんですね!!!!!
ここで突如、岡本太郎先生の「日本の伝統」を写経します。
※太郎先生の「芸術派爆発だ!」口調をモノマネして読んでください。・・わからない人はお母さんに聞こう!
「だいたい、"青丹(あおに)よし 奈良の都"と言いますが、あの時代の青丹の色というのは、やや緑がかった濁色で、奇妙に浮いた、いやったらしい色調です。
それに暗い朱と、桃色、さらに金がはいったその毒々しいとりあわせ、不協和音なえげつなさなんというものは、かくいう私でさえ、いささかコレはと思います。
この時代の人は、おそらく今日付き合ったら
やりきれないくらい無邪気だったにちがいない。
とてつもなく大きなもの、極彩色で光った
ものを、すなお、単純によろこんでたのでしょう。
てらいとか、ひねりとかいうような近世風な
繊弱な神経は、影も見られません。」
以上であります。
幣機構、「カラフルトタンは毒々い」とか言いたいわけでは、もちのろんありません。
そうじゃなくて、いつから日本人に無邪気さがなくなっちまったか!!!!ってことですよ!!!!!!
幣人事部、ボーナスはたいて世界50都市くらい旅行したかと思うんですが・・お墓がグレーで暗いのなんて日本と西ヨーロッパくらいですよ(唐突)。ほんとのわびさびもわからんやつがよ、ウメズ先生の家に文句いう資格があんのかと!!!!!!!!!!!!!
・・・失礼しました、取り乱しました。
あ、平本さんが作業場に戻られた!手にしているなぞの物体は・・!?